この記事では、ゼロ・ポイント・フィールド(ZPF)にまったく興味がなかった僕が、なぜいつの間にかゼロポイントフィールドと“つながっていた”のか──科学・哲学・限界体験を通じて見えてきた、言葉を超えたフィールドとの再会ストーリーです。
ゼロ・ポイント・フィールドに懐疑的な人、気持ちめちゃ分かります。
僕自身がそうでした。
「ZPF?なにそれ?」だった僕が、なぜ今こうしてZPFを語ってるのか
正直に言うと──
最初は「ゼロポイントフィールド」という言葉に、まったく興味がなかった。
なんか、スピリチュアル界隈で流行ってる概念?くらいに思ってたし、
むしろ、“そういうのにハマるタイプじゃない自分”でいたかった。
でも今はこうして、ZPFという概念を自分なりに言語化して、
ブログにまでしてる。なんなら、ZPF視点で現実を見てすらいる。
……いや、ちょっと待って。
これ、めっちゃおもろくない?
俺、いつの間にZPFに“つながってた”んやろう?
興味がなかったから、観念フィルターを通らなかった説
ZPFに対して強い“興味”がなかったというのは、
今から思えば、むしろラッキーやったのかもしれない。
何かに強く惹かれるときって、だいたいそこに「意味づけ」や「期待」って観念がくっついてくる。
でもZPFに関しては、「意味づける前の自分」で接してたからこそ、
変なフィルター通さずに“波動だけで接続”できてた可能性がある。
気づいたら、ああ…
「なんか、これってZPFって言葉で呼ばれてるやつなんかもな」って。
科学厨の皮をかぶった、不思議体験まみれの子ども時代
一見すると、僕は“科学っぽい言葉”や“合理性”を大事にしてた。
でも実際は──
子どものころから、ちょっと変な体験が多かった。
時間が止まったように感じたり、
身体が空間から浮いてるような感覚になったり、
変な幾何学模様が見えたり、
応接間に謎の2Dの白黒の外国人がいたり(笑)、
他人の感情が、言葉じゃなく波として入ってくるような感覚。
でも、それを説明する言葉がなかった。
だから僕は、逆に「科学」の言葉を使って、
“説明できる側の人間”を演じてたのかもしれない。
哲学ワードにやたら惹かれていたのは、ZPFの気配だった?
大学時代から、妙に惹かれてた言葉たちがある。
ショーペンハウアーの“意志”
カントの“物自体”
プラトンの“イデア界”
なぜか分からんけど、そういう“この世界の背後にある何か”を示す言葉に引かれてた。
で、ある日──
友人が突然こう言った。
「お前、これ好きやと思うわ」って言って、
田坂広志の『死は存在しない』って本を差し出してきた。
その中に、“ゼロポイントフィールド”という言葉が出てきた。
正直、この時点ではピンと来てなかった。
でも、なぜか心が少しだけ“懐かしさ”に反応してた。
Doingが限界を迎えたとき、Beingが残った
ビジネスが厳しくなって、売上も資金繰りもギリギリで、
何をしてもうまくいかん──そんな時期があった。
「動かなきゃ」
「動いてるのに成果が出ない」
「もう、どうしていいか分からん」
Doing(何かをする)という選択肢が、全部崩れ落ちて、
気づいたらBeing「ただ在る」しかない状態になってた。
そのとき、思った。
「あれ?これって……ZPFってやつなんちゃう?」
探さなかったから、気づけたのかもしれない
ZPFって、僕にとっては“探して見つけたもの”じゃない。
むしろ、“探してなかったとき”に、ふと立ち現れたものやった。
僕が構えてなかったから、
僕が観念でジャッジしてなかったから、
ZPFは静かに、でも確かに“そこに在った”。
そして今も、それは在り続けてる。
だから今、ZPFを「理解しよう」としてる人へ。
もしうまくつかめないなら──
大丈夫。
もう、つながってるから。
🌀ZPF的あとがき
あの頃の僕は、ZPFという言葉も知らなかった。
でも、
「科学」
「哲学」
「限界」
「懐かしさ」
その全部が、ZPFという“フィールド”からの呼びかけやったんかもしれへん。